法律と雑記帳

 法律とその他自分の出来事を書いていきます。

2017年01月

 前回の記事で、地方と都市部の情報格差について述べました。前回の記事の中で、紹介した記事では「発展途上国でもあるまいし、情報格差って恐らくこれほどインターネットが発達した日本においては皆無なんですよ」という、酪農地帯という僻地の現実を知らないお方の発言を引用しました。

 光回線はない、というのは当たり前で、しかもADSLすらない。モバイル回線の4Gもつながらないのは当たり前、2Gくらいがまともにつながる。YouTubeはカクカク、ゲームアプリ「黒猫のウィズ」のダウンロードももたついてイライラする、これが僻地の現実です。

 そして今回は、地方と都市部の金銭的格差を比較したいと思います。よく思われるのが、「田舎のほうが金かからない」という考えですが、そんなことはありません。むしろ都会の方が、お金はそんなにかからないと思われるからです。なぜなら、田舎で都会と同じように便利な生活をする、と思うのであれば、必然的に生活必需品の種類が多くなってしまうからです。

 状況は、都市部に近い田舎ではなく、スーパーに行くまで車で15分の農村地帯とします。電車はなく、バスは2~3時間に1本。そうすると、生活必需品は次のようになるでしょう。

1.車
2.家

 公共交通機関が発達していない田舎では、車は生活必需品になります。都市部に近い(近いといっても、田舎の感覚は1時間)ベッドタウンでは、それなりに都市部へのバスが走っておりますから、不便は感じることはありません。また、自転車で買い物に行けるため、車を持つ必要はあんまりないように思われます。

 しかし、農村地帯では、車がなければ何もできません。私が住んでいるところは、スーパーまで車をもってしても15分かかってしまいます。車は生活の足なのです。

 さて、この車、維持費がアホみたいに高い贅沢な使用となっております。手始めに軽自動車にかかる1年間の維持費を調べてみました。
軽自動車の1年間にかかる維持費

 このサイトに掲載されている数字を見ると、約36万!!もかかってしまいます。しかし、これには都会での駐車場代月1万が加算されているので、それを引くと年間約24万です。つまり、月2万も使っていると考えることができます。雪が降らない地方では、スーパーカブなど、維持費が極端に安いバイクで十分ですが、北海道など雪が降る地方でバイクなんて乗った日には、死と隣り合わせになります。

 対して都市部では、通勤のための定期代といってもせいぜい月1~2万程度です。たとえば、大宮から東京までの6か月定期は79100円です。つまり月2万円程度で済むというわけです。あれ、対して変わらないじゃん、と思うでしょう。しかし田舎は買い物に行くためには、わざわざそのためだけに時間を割かなければならないため、時間の使い方としても圧倒的に都市部の方が有利です。電車に乗りながら読書したり、スマホで情報集めたりすることができるなど、どちらがお得のように感じますか?時間的コストを見たら都市部に軍配が上がるでしょ。

次回に続く

 現在酪農の仕事をしておりますが、いつも文献を調べる際はネットに頼らざるを得ないのです。なぜか?簡単なことです。車を走らせて10~15分かけなければ、図書館にすらたどり着けないのが現実だからです。これがどれほど大変なことか・・・。

 たしかに酪農地帯という僻地だから、遠いのはしょうがない。という指摘もあるでしょう。しかし、たとえ歩いて5分のところに図書館があったとしても、次なる問題が発生します。地方の図書館は圧倒的に学術雑誌が少なく、根拠として述べることができる文献が限られすぎています。対して都市部の図書館、つまり市立・県立や大学の図書館は、文献の数が豊富で、学術雑誌も多く取り扱っていることがわかるでしょう。

 また、学術雑誌はネット上で一般公開していないものもあり、一般的な本(ハードカバー)に至っては現物がなければ見られない状態です。したがって地方に住んでいて都市部へのアクセスが悪い人は、情報収集をインターネットに頼らざるを得ないのが現実なのです。「この題名いいな、この論文読みたい」と思っても、無理です。情報収集は地方にいると限界を感じざるを得ません。一刻も早く、3月31日になって今の仕事を辞め、都市部に住みたい気持ちでいっぱいです。

 「情報格差なんていない」とかいうのは、大きな間違いであることは、私自身が身をもって経験しました。以下の記事は、酪農地帯という何もないところに住んだことがないから、情報格差なんてない、と言い切れるのだと思います。

地方と都市での「情報格差」なんてない

 この記事を読んでいると、僻地に住んだことがない、ということがよくわかるでしょう。酪農地帯に住んでみればわかることですが、本当に都市部は恵まれていると思います。彼の言葉を引用します。

発展途上国でもあるまいし、情報格差って恐らくこれほどインターネットが発達した日本においては皆無なんですよ。
 
 私自身も、都市部に近い地方に住んでいましたから、インターネットは何一つ不自由しませんでしたし、モバイル回線も4Gは当たり前、1時間バスに乗ればすぐに都市部へ出れる・・・情報格差なんてないじゃん!と私も思っていました。

 彼が言うように、インターネットが発達した日本では、情報格差が大きく縮まったのは間違いないでしょう。しかし、インターネットから得られる情報は上で指摘したように、限られており、文献や学術論文を読むためには都市部に住んでいた方が間違いないのです。

 また、彼は重大な事実を見逃している。酪農地帯という、僻地では光はおろか、ADSLすらないというのが現状なのです。モバイル回線を使おうにも、2Gや3Gというのは当たり前です。回線速度が遅すぎてイライラするのは当たり前です。このような状況で、どうしてインターネットを使おうという気持ちになるのでしょうか。

 上に紹介した記事は、「情報なんてどこでも収集できる。収集しないやつが悪い」ともとれる発言をしておりますが、そのようなことはありません。彼がいう、発展途上国並みの通信インフラが未整備な地域があるということを今すぐに知っていただきたい。情報格差は、確かにあるのです。

 前回は、嫌がれせによる配置転換の例として、松陰学園事件のあらすじを紹介しました。松陰学園の女性教員Xは6週間キッチリ休み「産休は権利だ」と主張しておりました。これに対し、ボンクラなYはXの主張が気にくわなかったらしく、到底履行不可能な職員室の時間割ボードの書き直しを命じましたが、Xはその命令を聞かずにいたところ、Yは始末書の提出を命じました。しかし、Xは後日ボードの書き直しをしていたため、始末書の提出を拒否しました。

 これに腹を立てたYは、生徒に「Yについてどう思うか」という感想を書け、とYに命令(アホ)しましたが、当然Yは「労使の問題で生徒を巻き込んではいけない」と至極まっとうな反論をして、Xの命令を拒否しました。

 いよいよ激おこプンプンのYは、以下のような措置を取りました。

Xは、それまで担当していた学科の授業、クラス担任その他の校務分掌の一切の仕事を外され、席を他の教職員から引き離されて配置された上、何らの仕事も与えられないまま4年6ヵ月間にわたって一人だけが別室に隔離された。そして、更に5年余の長期間にわたる自宅研修が命じられた。
(96)【労働者の人権・人格権】職場での嫌がらせ
 長期間にわたる配置転換での嫌がらせの典型例ですね。数字だけをみれば9年と6か月もまともな仕事をさせてもらえない、ということです。このようなクレイジーなYの仕打ちに対し、Xは不当な行為と判断し、Yに対して慰謝料の支払いを求めるに至ったのです。

 裁判所は、次のように判断しました。
 まず、ボードの書き直しをしなかった始末書については、全体としてあえてXにさからったと評すべきところはない。
 第2に、感想文提出の命令は、Xが主張したように労使関係について生徒を巻き込むことは教育者として適切ではない。
 第3に、嫌がらせによる配置転換は、一切賃金も支給されず、物心両面にわたってXに対し多大な不利益を被らせた。
 したがって、被告人Yに対し600万の慰謝料が相当とする、という判決にいたりました。高い授業料ですね。

 法にある権利を主張しているだけなのに、過去の価値観にとらわれて「俺のときはこうだった。だからお前もそうしなければならない」とか「休まないで働くことが、世の中で美徳なのだ」とか、自身の価値観を押し付ける行為は恥ずべきものです。日本社会は、依然として儒教的価値観が強く、労働法なるものを知ろうともしないし、守ろうとしないファッキンカンパニーが多いですね。

よく、労働者と雇用主(又は上司)が議論し、「こいつ、生意気で気にくわない」と判断した上司は、その労働者を転勤させ、辞表を出すように追い込む。これは別に不当な解雇ではなく、労働者が自らの意志で表明したものだから、法に抵触していない。・・・もちろん、僕はそうは思いません。

 考えてみてください。明らかに権利を濫用しているのは、人事権を握る上司や雇用主だと思います。ただただ、議論をして生意気だと思い、その労働者を一方的に不利な立場に追い込み、辞表を提出させる。この事例に対し納得する人はかぎりなく0に近いのではないでしょうか?

 独立行政法人 労働政策研究・研修機構が配転・異動について紹介しております。

 (1)配転とは、従業員の配置の変更であって、職務内容または勤務地が相当の長期間にわたって変更されるものをいう。

 (2)使用者は、以下の場合に労働者の個別的同意なく配転を命ずることができる。すなわち、a.労働協約や就業規則に配転がありうる旨の定めが存在し、実際にも配転が行われていたこと、b.採用時に勤務場所や職種を限定する合意がなされていなかったこと、である。

 (3)ただし、配転命令につきa.業務上の必要性がない場合、b.不当な動機・目的が認められる場合、c.労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものである場合には、当該配転命令は権利濫用として無効になる。

(36)【異動】配転の意義

 

 (1)は配転の定義

 (2)は使用者が配転を命ずることができる権利

 (3)は配転命令が労働者に対し大きな不利益を負うものである場合は、権利濫用となる、ということです。


 今回は、いわゆる追い込み退職についての記事ですから、その部分に限って判例を紹介することにします。労働政策研究は、職場での嫌がらせ行為についてもまとめております。



 (1)嫌がらせを目的とした仕事外しや職場からの隔離は、通常甘受すべき程度を超えて精神的苦痛を与えるものであり、これにより労働者が被った精神的苦痛は損害賠償により慰謝されなければならない。

 (2)使用者は職場の内外で労働者を継続的に監視したり、種々の方法を用いて従業員を職場で孤立させる等の行為をしてはならない。また、そのような行為は、損害賠償の対象となる。

 (3)配置転換等により勤労意欲を失わせ、やがて退職に追いやる意図をもってなされる行為や、退職に追いやるための行為等をしてはならず、そのような行為に対しては損害賠償が命じられる。

(96)【労働者の人権・人格権】職場での嫌がらせ

 (1)は嫌がらせを目的とした職場からの隔離は、慰謝しなければならない

 (2)は使用者が労働者を内外で監視したり、孤立させる行為をした場合損害賠償の対象となる

 (3)は退職に追いやる配置転換は損害賠償が命じられる


 ここで、職場での嫌がらせにあるリンク上に、「松陰学園事件」が紹介されております。ここで紹介されている上司Yは大変クレイジーかつ陰湿な野郎です。女性職員Xは産休6週間をキッチリとり、「産休は権利です」と主張するXに対してYは快く思っていませんでした。長くなるので次回に続きます。


追記

2017/01/28

判例紹介にあるXとYを逆転。

 前回の記事で紹介したリンク「情報科学エッセイ」を読んでみると、結構面白い。あの時は2つ目の記事でしたが、今回は第1回目の記事をよんで、「マニュアル人間は情けない」「マニュアルでしか対応できないのか」という世間一般的な意見に対して考えさせられる内容でした。

情報科学エッセイ1「効率化するという事は、あまり起きないことを無視する事だ」
 効率化するという事は、あまり起きないことを無視する事だ。もう少し穏やかに言うと、良く起きる事とあまり起きない事が何かを調べて、良く起きることに特化させてあまり起きないことを軽視する事だ。それはつまり、効率化するという事は軽視する部分が現れるということだ。それが「効率化にはリスクがある」ということである。そして我々は効率化を求められるがために、リスクだらけの世界を生きることになったのではないかと感じる。

 つまり、効率化を追求すると、不必要だと思われることは捨てて必要と思うものだけを拾い上げ、その部分だけを用いることになる。そうなると、上の文章にもある「あまり起きない事」が見えにくくなり、結果「あまり起きない」非常時に対処することが難しくなる、ということです。当然非常時に対するリスクを負うことになる。

 効率化とは、非常時のリスクを受け入れる代わりに、合理化された作業をこなし、利潤を追求するといえるでしょう。世間一般的な効率化とは「ひたすらに利益を追求すること」のように思います。しかし、上のような文章を読んでみると、そうではないと言えるでしょう。

 一般に「業務の効率化」と呼ばれている物は、大体この法則に当てはまっているのではないか。「マニュアル人間」という言葉がある。良く有るパターンへの対処法を学んだだけで、とりあえず仕事を進める事が出来るが、イレギュラーな事態については何もする事が出来ない人を指す言葉だ。しかしどんな事態でも対処できる人間などそんな簡単に育てられるわけがない訳で、例えばバイトを全てそんな労力をかけた人員にしてから配置する訳にはいかない。マニュアル人間で良い所はマニュアル人間に任せるのが効率化というものである。そこにリスクがあるのは言うまでもない。
 この世に何でもできる人はそう多くありません。人には向き不向きというものがありますから、できないことはマニュアルを用いて反復練習させることで、初めてバイトで労働力として使用することができます。しかし、すべてに対応できる労働者を育てることは、雇用主にとって非常に手間暇がかかることで、いちいちそのようなことはしていられません。したがって雇用主は、当然不測の事態に対してのリスクを負うことになります。

 このように、効率化とはリスクと紙一重である、といえるでしょう。マニュアル人間は甲斐性がないとか、役に立たないという固定観念は、捨て去るべきです。効率化を目指し、同時にリスクとどう向き合うか、という議論をするのが、生産的であるように思えます。

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