法律と雑記帳

 法律とその他自分の出来事を書いていきます。

 現在の職場で、上司に不満を持ったきっかけから、労働法や労働について学び始めたのでありますが・・・調べれば調べるほど自分の立場が奴隷のような状態と何ら大差ない状況と気づき、絶望している状況でございます・・・。ついこないだまでの学生時代には、自分と関係ないだろうと高をくくっていたわけですけども、そんなことはなかった。むしろ今の日本では誰の身にも起こり得る、そんな労働環境が日本に蔓延しているとは誰も信じたくないでしょう。

 され、このような労働問題は国連から2001年に指摘されているのですが・・・
経済的、社会的及び文化的権利に関する委員会の最終見解

18.委員会は、締約国が、1957年の強制労働の廃止に関する条約(105号)、1958年の雇用及び職業についての差別待遇に関する条約、(111号)、1989年の原住民及び種族民に関する条約(169号)のようないくつかの重要なILO条約を批准していないことにつき懸念を有する。

19.委員会は、締約国が公的部門及び私的部門の両方での、過大な労働時間を容認していることに重大な懸念を表明する。

20.委員会は、労働者は45歳以降、十分な補償なしに、給与を削減され、あるいは解雇される恐れがあることに懸念を表明する。

 日本政府は、どうやらただ黙って働いてくれる労働者がほしくてたまらないらしいです。18に書かれてある労働人権に関する条約2つを批准していないことから、それは明らかでしょう。そして、19.や20.でも指摘されているように、長時間労働に対しても国連から苦言を呈されております。これをさっさと守っていれば電通のような事件は起きなかったのでは・・・?電通以外にも、長時間労働は全国各地で横行していることから、日本の政策は経営者側に大きく傾いているのは明白な事実です。

 ここでは、おもに1957年の強制労働の廃止に関する条約について簡単に述べていきたいと思います。この条約は1930年の強制労働の廃止に関する条約を補完する形で制定されたものです。ここでいう強制労働とは「強制労働というのは、処罰の脅威によって強制され、また、自らが任意に申し出たものでないすべての労働のこと」であるとしています。つまり、徴兵制による兵役の義務とか、災害を防止するための労務や、裁判所の判決として強要される労務などを指します。

 ただ、1930年の強制労働といえば、植民地を指すため、それを補完しなければ現代にあわないということで、1957年に新たな条約を制定しました。

1957年の強制労働に関する条約

 第1条に書かれている概要は以下の通りです

  1. 政治的な圧制もしくは教育の手段、または政治的な見解もしくは既存の政治的・社会的もしくは経済的制度に思想的に反対する見解を抱き、もしくは発表することに対する制裁
  2. 経済的発展の目的のために、労働力を動員し利用する方法
  3. 労働規律の手段
  4. ストライキに参加したことに対する制裁
  5. 人種的・社会的・国民的または宗教的差別待遇の手段

 具体的な事例を調べますとa~eがいかに守られていないかがよくわかると思います。
 a:三菱樹脂事件 学生運動している新卒者なんていらねえぜ!
 b:派遣労働法  株主や企業のために低賃金で働け!
 c:ケース1
  部下「今週末遊びに行くので有給休暇をとらせてください」
  上司「何言ってんの?新人のくせに有給休暇とんのか?」という、暗黙の規律。

  ケース2
  部下「副業を認めてください」
  上司「就業規則第~条によって本社に努めている社員の副業は認められない」という、人権無視
 d:アリさんの引っ越しマーク
 e:外国人労働者や被差別部落への差別

 ・・・といったように、国連の勧告はおろか、自国の労働基準法すら順守できない国なのであります。なんのための国会議員なのか?なんのための国会なのか?国民の税金で食ってる割には国民に寄り添わない政策を推し進める害虫どもがうじゃうじゃしております。このままいけば僕らが食いつぶされるのも時間の問題でありましょう。

 最近変な法律ばかりが制定されて、日本に税金を納めるのがアホらしくなってきました。今回は、最近法律を万能視するチンケな政治家どもに物申すために、法は万能ではないということを書いていきます。

 まず、一般的に我々が思いつく法律というのは刑法だと思います。犯罪をあらかじめ予定し、その上で罰則を規定し、問題が起こるのを未然に防ぐ、だから刑法は必要だ、という主張もある。民法においても、遺産相続やなんだかんだの解決の目安として必要だ、と思われるかもしれません。しかし、なんでもかんでも法によって解決するのは、経済的負担や精神的負担を考えると、よくないということがわかると思います。

 まず経済的負担ですが、弁護士費用が真っ先にあがることでしょう。たとえば、法律相談は1時間5000-10000円ですし、離婚調停では20-30万必要とします。交通事故で被害者になり、保険会社の提示金500万円を不服として1000万円の訴訟を起こしたとしたときも20-30万が必要になります。この20-30万というのは着手金であって、報酬金は別です。さらに裁判所に弁護士を連れてくるとなると日当や交通費などもかかりますから、経済的損失はかなり大きいでしょう。

 次に、精神的負担ですが、たとえば遺産問題。ふつうは話し合うなりなんなりで決めると思いますが、めんどくさいから裁判所に託す、という考えから裁判が起きた場合、もはや話し合う余地なしと決めつけられるような感覚に陥るのではないでしょうか。また、様々な手続きをしなければならないため、非常にめんどくさいですし、裁判をするには体力も必要ですし、弁護士からの無慈悲な質問に答えなくてはなりません。

 このように、なんでも法律によって解決するのは当人の負担が大きいことが容易に想像できるでしょう。負担以外にも、そもそも当人が法律を守らなければ法の意味がない、ということは歴史が証明するところです。禁酒法を制定したらどうなったか。みな禁酒をするどころか、逆に酒の密造などが盛んにおこなわれ、非合法組織の資金源になり、結果として悪法になってしまった。

 カジノ法案や安保法、秘密保護法など制定するのはよいが、それを制定したからといって経済がよくなるのか?治安はよくなるのか?国際問題が解決されるのか?疑問が付きません。アベとかいうアメリカのポチは自分の好きなように法律を制定しているが、それで物事万事解決すると思ったら大間違いである。

 ふだん、僕らはしらないうちに法律的行為をしていることになる。たとえば、何気なくコンビニに行って買い物をするとき、売買契約にもとづいて購入すること、または外出せずとも家の中にいるだけでも家屋の所有権関係などが絡んでくる。真田は法と人間関係について次のように述べております。

われわれは個人的存在であると同時に、社会的存在でもある。私的存在であるとともに、公的存在でもある。その結果、われわれは公法・私法・社会法・国際法という種々様々の法体系が縦横に綾なす複雑な法関係の中に存在していることになる(真田1996:3)
 人間とは個人的存在でありながら社会的存在でもあります。そのため公法・私法・社会法云々と様々な法が関係しあう複雑な中で生きております。こんな複雑なものをなぜ人は作るのか、それはあらかじめルールを定めておくことによって争いを回避する、もしくは争いが止むまでの努力を最小限にとどめることができる可能性があるからです。しかし、全員がルールを守るとは限らないし、ほぼ多くの人が守らないかもしれません。したがって、全員が納得し、このルールを受け入れてもらうためには全員を等しく扱わなければなりません。

あらかじめルールを設定し、これに沿って行為をする、ないしそれに則って争いを解消することにより、各人が自ら選んだ目的を追求するための活動はいっそう促進されるのである。もちろん、そうしたルールが誰からも承認され、受け入れられるには、すべての当事者を分け隔てなく公平に扱う、すなわち等しきものを等しくという意味における正義に適ったものである必要がある(中山2009:41)
 この「等しきものを等しく」という原則こそ法が目指す理念であり目標です。法律に基づいた秩序ある世界を作るには、この原則に基づいて法を制定し、広く社会にいきわたらせなければなりません。特定の者にしか利益にしかならない、または時代遅れで誰もが納得しない法は、悪法であり社会秩序に貢献しないでしょう。

参考文献
真田芳憲(1996)『法学入門』中央大学出版部
中山竜一(2009)『ヒューマニティーズ 法学』岩波書店


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